国、大丈夫だろうか。総理大臣が話したことをそのすぐあと別の大臣が撤回する、とか。民主党グループ内でもざわざわ落ち着かないし、土台ぐらぐら。でも、こう言ってもられないんだろう。最終決定するのは自分になる。でも正直どうしていいか全然わからない。あと、このこと、佐古官房参与が辞任=政府の原発対応批判http://www.asahi.com/politics/jiji/JJT201104290067.html


うーん。
エリートというのは、内田樹さんの考えでは、エリート=リスクテイカーである、と。特権的に人よりいい目にあうのがエリートではない、と。自分の指示・判断ひとつで何百万人が死ぬかもしれないという責任を負う立場にある人がエリートであって、負う覚悟のある人を本当のエリートという。と。

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あと、いつかのめざましテレビで被災者の言葉で印象にのこっている言葉がある。津波の起きた日、その日のことを話していて、「でもね、とっても星がきれいだったの」と。え、と思った。私は、津波の起きた日の後の、テレビに映るきらきら晴天の日の被災地となってしまった場所の映像をみて、むっとした。光に。松本人志の放送室で、松ちゃんが小学生の頃、すごく楽しみにしていた遠足かなにかで、その当日雨が降って、だったか、その時松ちゃんは、空に向かって叫んだと話していた。「降りてこーーーい!」と。なんかそんな話しがあった気がするんだけど、なんというか、そんなというか、私ははっきりと何かに対してむっとした。あの「とっても星がきれいだったの」って言葉は印象に残った。

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あと、小島慶子キラキラで、小島慶子さんが内田樹さんの「疲れすぎて眠れぬ夜のために」という本からの引用とからめて話していたことがとっても興味深かった。

2011.4.13.キラキラOPより
遠い場所の話じゃなくて、要するに生活感覚でもあると思う。自分が家族と生きていくってことは当事者ですから。何かを決めなきゃいけない、決めてそれから創造しなくちゃいけない、それから前例にのっとらないでその時必要なことだったら手を差し伸べなくちゃいけない、これ暮らすってそういうことですよね、その全く同じ感覚、自分の家族や恋人を守るのと全く同じ感覚が、企業とか組織社会の仕組みの中に持ち込まれて当然のはずなのに、そこは全く別世界、仕事と私生活は別というのと同じように、企業には企業の理屈がもとからあるから、政治家には政治家の理屈があるから、あるんだからしょうがない、あるものは壊せない、そこにのっかってて大丈夫という感覚と、切実に人間が生きていく不確実さは、明治から今に至るまでかわらない。切実に生きていく不確実さと向き合うっていう力を、自分の職責が大きければ大きいほど持ち続けなければいけない、リアルな感覚を持ち続けなくてはいけない、自分の子供に対して原発つくってやるのと同じ気持ちでつくらなくてはいけない、けどそれを忘れたわけですよね。

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原発について考える時、矛盾に突き当る。原発やだこわいでも電気ないと困る。どうしよう、どうすればいいんだろう、実際に私に何ができるんだろう、と個人が考えることが、全員が自分のくらしのこととして考えることでしか現実的な解決はしない。あいつは正しいあいつ嘘つきだ云々、というのはわかった、あいつの話はわかった、じゃああなたは?ってことです。あなたの暮らしを維持していく上で、あなたが引き受けられるリスクと引き受けたくないリスク、具体的にとれる行動は何っていうことを個人で考えないといけない。

ものすごい腹立たしいけど、ちゃんとその刃を今までの自分にも向けないとただ単につるしあげてもなんにもなんない。っていうね。スケープゴート見つけてそれこそ安心できちゃうわけじゃん。あいつが嘘ついてたから全部あいつのせいだったんだよな、なんとかしろよっていうさ。