現代霊性論//内田樹・釈徹宗

 P020

霊と肉体を分ける宗教はかなりあり、儒教も霊と肉体を分けて考えます。儒教では、肉体と魂が一緒になっているのが、生きている状態です。このように考えない宗教ももちろんあって、たとえば、仏教は分けません。
 死ぬというのは、儒教では、肉体と魂が分離することです。「魂魄(こんぱく)」って聞いたことありますか?「魂」が霊のことで、「魄」が肉体のことです。分離したのが死んだ状態。当然、死ぬと「魄」である肉体はだんだん腐敗・分解されて滅んでいきますよね。だから、「魂」が還ってきたときに、「魄」がないと宿るところがなくて困るので、「依代(よりしろ)」といって「位牌」を作ったわけです。だから位牌というのはもともと仏教ではなくて、儒教文化のところに生まれた習俗なんです。

私が考えていたのは儒教の思想なんだなーと。仏教かと思ってたけど、仏教は、死ぬと魂も肉体もぜんぶそれっきりという考えっていうの、し、知らなかった。。それから、話はかわって、「子供を産む」というのを英語にやくしたら、まあいくつか言い方はあるけど、give a birth to a babyみたいなのがひっかかって、違和感を感じた。その感覚はなかったし予想すらできてなかったーと思った。
英語を教えるとなると、やはり宗教についても勉強しなくちゃいけないんだとあらためて思っている。
こういった面白いなー!と思える本は買って自分で持っておきたいんだけど、どうもこれまでそうしてきた本を読み返す、という行動をしたことが皆無に近くて(新しい本ばかり求めて)、この本もきっと同じ運命をたどるのならばと買わずにそのままでってのがおおすぎるなぁ。

P254.
内田:大殺界とか、さっき言ってた「三十二さいまで結婚できない」っていうのはほんとうに「効く」んです。何でかと言うと、自分が信じちゃうから。「私は大殺界だから今年一年間はだめなんだ」と思っていると、当然、それを信じてしまった自分を正当化するために、わざとそういうことをするようになるんですよ。その話を信じたのが「正しかった」ということを証明するために、わざと転びそうなところを選んで歩く(...)その結果、大怪我をする。そして「ああ、私は大殺界なんだ」って納得する。

釈:講義で話したように、「言葉によって呪いがかけられる」んですよね。「予言の自己成就」という面もあります。予言されると、その方向に引っ張られちゃう。

内田:(...)そんなバカな占いでも、行って三千円払って予言を聞いた以上は、その払った三千円が惜しくなるからです。そこで三千円払った自分の行動を正当化するためには、予言が実現したほうがいい。ほんとに人間って、人生を信じられないほどの安値で叩き売るんです。怖いですよ。

これは忘れないように。言葉の呪いにかかっていないかと考えてみる。
あともう一つ、カルマについて。私はずいぶん間違った解釈をしていたんだなぁ。

P274.
カルマというのは、日本語では「業」と訳されています。われわれの行為、考えたこと、語ったことは、その場かぎりで終わりじゃなく、自分のアートマン(自分の実体)に全部蓄積されていく。善いものが蓄積すれば、このアートマンは、いずれまた新しく、より善い存在に再生するわけです。しかし、悪いものが蓄積すると、苦しみ多いものに生まれ変わる。このような輪廻の理屈を支えている概念がカルマです。だから、この苦しみである輪廻から脱出しよと「解脱」を目指すことになります。どうやって脱出するかというと、われわれの本体がこのアートマンで、宇宙の法則がブラフマンなんですけれど、このブラフマンアートマンが一体となるという体験をすることによって解脱するというのが、ヒンドゥー教の考え方です。

引用しながらあらためて面白い本だとにんまり。すっかり内田教の信者なのである。
一つ一つ丁寧に知識を蓄積し、自分自身で咀嚼して、だから、事実は事実なのだけど、語られる人によって面白さが違ってくる。言葉がふえ、物語がふえていく。

さて、明日は健康診断。
かくれ肥満なのは予想できるとして、目や耳がどれだけ悪くなっているのか予想できない。