意味がよくわからない!わかりたい。どういうことだ。菊地成孔菊地成孔最強説。

PELISSE
mar-16-2011

こういう時、多くの方が「こんなとき、○○○としてなにが出来るのか考えています」と仰りがちになり、まあ、解らないでも無いとはいえ、腰が抜けるほど驚くべき事には「○○○」の中に「音楽家」が代入される、つまり、「こんなとき、音楽家としてなにが出来るのか考えています」という方がいらっしゃり、本当に椅子から落ち、「記憶喪失症を急発したのかこの人は・・・」と呟きながら額の汗を手の甲で拭うほど驚く訳です。音楽家は、音楽家として、こんな時であれどんな時であれ、何が出来るかと言えば音楽が出来るし、音楽しか出来ないのではないか?え?違うの?としか考えられぬワタシは、不謹慎のみならず、自分の想定以上に遥かなバカなのかも知れません。

さきほど、後手後手野郎である事を嘆いたばかりの口で言いますが、音楽が出来るというわけで、例えば阪神大震災の時に、素早く被災地に行き、アンプラグドで演奏した。といった音楽家がいくらかおり、これはこれでなかなかステキな事でしょうけれども、ワタシの考えでは、これは音楽の即効性と直接性に対する高い信頼であると同時に、懐疑である。つまり、アンビバレンツな行為だと解釈しています。

 即ち、「そのとき、その場で、その人に演奏する」ということと、「ちがうとき、ちがう場で、ちがう人に演奏する」という事を分割しているという事で、前者を信頼するということは、後者を信頼しないという事になりかねないのみならず、信頼している態で、前者自身も懐疑している事になりかねない。

 友人がたった今、失恋し、池尻大橋のマンションで落ち込んでいるとする。すぐさまタクシーでそこに行ってハンディのキーボードを弾いて歌を歌う。ユードンノー・ワットラヴイズ。これなかなかステキですが、そのステキさを一面的に尊いとした場合、「そのとき、その場で、その人の前で演奏しなかった音楽(特に、同じ曲だったりした場合)」の尊さを些かながら無化する可能性を感じます。音楽だけではない。「今、この場で、君に言うよ」というのは歌謡曲クリシェですが、眼前で津波に飲まれている人にかける言葉は無い。祈りというのは、そもそもそうして生まれたはずです。いつか、違う場所で、君にも、君以外にも、言い続けるよ。

 

音楽にはとてつもない遅効性の力もありますし(ワタシは、チャーリーパーカーが本当に効くまで20年ほどかかりました)、何よりも遍在性があります。遍在性はユビキュタスと言いますので検索して頂ければご理解頂けると思いますが、ワタシは(テレビのみですが)報道される情報の総体から遍在性を強く感じます。

 

愛する家族を手をつないで逃げたのに、自分だけが助かってしまった老人も、何千もの水死体であり礫死体であるような肉と骨の山を目撃してしまった幼児も、一瞬で粉微塵になってしまった人も、何日ももがき苦しんで死んだ人も、よく出来たカフェオウレを飲んでため息をついていた人も、角ハイボールの18杯目でゲラゲラ笑いながら飲んでいた人も、すべてが遍在であり、つまりはワタシの一部であり、誰かの一部であり、全体を構成しているのだという感覚。自殺しようと首に縄をかけた瞬間に地面が割れた人もいる筈です。とうとう告白し、震える唇が重なり、狂うかというほどの多幸感を感じた瞬間に奈落に落ちた人もいる筈です。人を刺そうとして包丁を構えた瞬間に壁が倒れて来た人もいる筈です。刺し終えて、殺人を犯した瞬間に海面がせり上がって来た人もいる筈です。殺人を犯し、何十年も逃亡し、生きた心地がしない毎日のなかのある日、大地が波打ち始めた人もいる筈です。バチカンに祈りを飛ばした人、発狂した人、あらゆるすべてを持ちこたえた人、すべてが遍在です。そうでないと、どうしてあの人は助かったのにオレは助からなかったのか?あるいはその逆。という問いに対する答えが、運命論だけに収斂されてしまう。運命は別個に存在しますが、遍在性とはまったく次元が異なります。

 

音楽は遍在性を強く示す営みで、時空を超えるという属性を持ちます。母親の鼻歌まじりの子守唄は、その時のその子にだけ届いているのではない。1974年のハードロックは、レコードによる再生などとは別に、当時のワタシではないワタシに届いています。いますぐ机を叩き、口笛をお吹きになるがよい。適当にデタラメにではないですよ。ご自分が思う「音楽」になっている事が前提ですが、そこに誰もいなくとも、もしそれが音楽なら、音楽は遍在性と共に、飛行に似た運動を起こします。すなわち無人島に咲く花の美は実存する。

 この実感を、ワタシはほとんど音楽だけから得たので、非常に教養のあり方が偏っていると思っていますし、この実感を巡るやりとりの中で、物語という概念が生まれ、調性という概念が産まれたと思っています(これは追記ですが、ヤスパース、並びにドイツ式の現象学、亜種現象学、ユビュキュタス概念等々に批判的な方々から、驚くべきほど多数の反論を頂戴しましたが、ワタシのこの、音楽のみから得られる実感からみれば、ヤスパースなど紙っぺらを綴じたものです。「学問など非常時に役に立つもんか」などと言っているのではない。単純にどれもちゃんと読んだ事が無いだけの事です。ですので全員に同じ解答を送りました。哲学ばっかりやってないで音楽を聴けと。と、追記の追記ですが・笑・「だったらブログなど書かずに音楽だけやってろと」反論されたので、文筆家と学者以外全員のブログを止めさせてから言いやがれ。ってかおまえ学者ぶってるけど単に哲学オタクのバカだろ。頑張れよマジで。と返しました・笑)。これらはどちらも内部に、遍在性の否定もしくは未知を抱え込んでいます。本日もまた不謹慎を承知で書きますが、現在のテレビ中継、そして中継されている惨状の連鎖は、終末モノと呼ばれる、CGを駆使した、ハイバジェットなハリウッド映画のようだ。これは強い物語性、つまり遍在性の拒否であり、音楽それ自体と根本的に対立しうる物です。