街場の教育論//内田樹
p244 はじめに言葉ありき

まず自分の「思い」が先にあって、その「思い」を「そのまま言葉にする」のが国語教育のだという仮説を採用すると、子どもがある幼児的な身体感覚にふさわしい幼児的な語(例えば「むかつく」とか「うざい」とか)で満たされたとき、それ以上自分の言語を豊かにしなければならないという動機づけは失われてしまいます。現に、「思いをそのまま言葉にする」という課題は達成させられてしまったわけですから。ですから、仮にそのあとの言語的進化があったとしても、それは「むかつく」という語をTPOによって三六通りに使い分けるというような方向に向かうしかない(現に、日本の子どもたちの言語状況はそういう方向に向かっているように思われます)。

    • -

子どもたちはまず、「言語的ひろがり」のうちに投じられるべきだと思います。自分の手持ちの身体実感では推し量ることができないけれど、言葉だけは知っている。そういう言語状況こそが教育的であろうと私は思います。「臍を噛む」とか「怒髪天を衝く」とか「心頭滅却すれば火もまた涼し」というような言葉はどうしたってまず言葉だけがあり、身体実感の裏づけなんかふつうの子どもにはありはしません。でも、その言葉を知ったことによって、身体感受性は子どもを閉じ込めている日常的制約を超えて、「外へ」拡がろうとする。私はそういうふうに子どもたちの触手が「外へ」と拡がる契機となるものを、総じて「教育的」と呼ぶことにしています。