ブログはいいな。誰かのブログを読むのも、自分の何かを書くのも好きだ。
今日あった出来事を知るよりも、その出来事でどう思ったかとか何を感じたかだとかを読むのが好きだ。
文は人なり
私は自分の愚かさを露骨に出している感覚がある。
たまに物を知ったような事を書く時は、なんというか、不特定多数の人が見ている前で、俺スゴくね?と言ってて、厚顔無恥。なんというか、その人前でパンツを脱いでいるような、なんとも愚かな姿を想像するのだ。部ログを書いているときは。


特別意識というものはどこにいってもついてくる。
僕はこんなに愚かな人間なんだ!と言うことと、僕はこんなに優秀な人間なんだ!と主張するのは、言葉は間逆の意味を表しているけど、伝えたいことは、僕は特別なんだ!ということじゃないかとか思わなくもない。


多分さ、あのさ、夜にさ、一番近い部屋の窓からヌワッと人が現れたら死ぬ程びっくりするんじゃね?すげいやりたい!ヌワッーてやりたい!けどもし自分がされたらトラウマになって毎日カーテンを閉じて生活することになるだろうな。ついでにその人に心も閉ざしてしまうこん。エブリバディうこん!(P屋良)



虚栄心は人を饒舌にし、誇りは寡黙にする。ショーペンハウアー


さっき家族の自慢話の事を書いたけど、ショーペンハウアーがそれと似た面白い事を幸福論の中で書いている。民族を家族に変えてみるとさっきのもやもやが晴れるのてす。

曰、
誇りの中でも最も安っぽいのは民族的な誇りである。なぜかと言うに、民族的な誇りのこびりついた人間には誇るに足る個人としての特性が不足しているのだということが、問わず語りに暴露されているからである。すなわち個人としての特性が不足してしていなければ、なにもわざわざ自分を含めた幾百万の人間が共通に具えている要素に訴えるはずがないからである。

後に民族性について彼はこう言っている。

民族性は集団に関する表現であるから、正直な批判をくだせば、そうそう良いことが多く言えるものではない。むしろ人間的な愚劣さや不合理や弱点が国が変わるごとに手を変え品を変えて現れるだけのことで、この国ごとに変った 姿をこそ民族性とはいうのである。
// 幸福論・ショーペンハウアー



自慢話というのは、面白(interesting)いんじゃないか。
じっくり聞いてみると、その人のコンプレックスというか、普段はよく見えない部分がゆっくり見えてくるような気がする。
狡さは、ほとんどの人が持っていることで、それを強く非難することは、また、なんだか可笑しな気がする。
ショーペニスティック








人を非難する時は、いつだって、自分の事を棚に上げて非難することになる。
他人は自分なのだ。
世間というのは、お前なのだ。

あの二人の共通点、それは他人に興味がない、ということだと思うんだけど、、それは、何と言うか、利口だな、と思った。


自己ピーアール文を書けるはずがねい!
私に内定をくれるような会社を信用できまんまんなー。とほざいてみーんましーん。

真実とはだいたいにおいてネガティブなものかもしれない。
まー、受け取りかたしだいなんだけど。



ここにも名曲が

red red red//fiona apple
i dont understand
i never understand
but i try to understand
there is nothing that i can do

「どうせダメなセックスしかしてないくせに偉そうに。」

とは!何て殺傷能力の高い!

コレハスベテ、ボウリョク、ナノダロウカー。ヤホホ