それを「畜群」と、ニーチェは罵った

知ることより考えること

知ることより考えること

たまにコリコリ硬い物を感じたが、とても面白く読ませてもらいまんた。宇宙や存在などについての哲学的な考察と日常とを絡めたコラム集、といった感じの本だ。

この本を勢い良く読んでいた時は、職場のとある人と、どう向き会おうかほんの少し迷っていた時だったのだが、この本を読んでいくらか気楽に考えることができた。気楽になれたのは、゛人生暇潰し゛、゛自分という存在は過去にも未来にもなくて、今にしか存在しない゛、゛もうこの際自分が善ければいいじゃないか゛とかいう彼女の考えに納得するものを感じたからだと思う。

それから、2005年に、母親に薬局で購入した劇物タリウムを摂取させて殺害しようとしたとして、静岡県東部の女子高生が殺人未遂の疑いで逮捕された事件をトピックにして、著者は、「人間、この奇怪なもの」と言い、「あれらの事件は、精神医学よりも、むしろ文学によって扱われるべき事柄なのだろう。」と言っている。これにピーンと来るものがあったが、なぜ文学によって扱われるべきだと著者は書いたのかイマイチ分からない。文学とはなんぞや。


覚えておきたいと思ったことを本文から引用して残しておく。

「まー人間というのはかくまで愚劣な邪推が可能なものか。一種の感銘を覚えることはある。人は見事に、自分の見たいものしか見ていない。自分の見えるようにしか見られないという大常識を、今さらながら凄いと思うのである。
(略)
いかな聖人君子といえど、その人が世界を見る見方は、その人が世界を見る見方でしかあり得ないのである。すなわち、世界とは、「その人の」世界でしか有り得ないのである。

だからこそ、このことに気づくと、世界を見る見方が変わるのである。すべての人が、その人に見える見方で、世界を見ている。むろん自分もそうである。自分には世界はそう見えるが、それは自分の見方でしかない。こう相対化することができる。では他の見方はどうなのか。賢くなりたいと思うなら、当然それを学ぼうとする。自分にはわからないことを言う人の言うことを、わかろうと努めるだろう。自分にわからないことは間違っていることだと反論に努めるのは、賢くなる気がないからだ。つまり自分を賢いと思っている馬鹿、だから度し難いと言われるのである。

偏頗(ヘンパ)な主義に凝り固まった人や、性悪のために悪意でしか解釈できない人などを見ると、端的にわかる。人間は、いかなる場合も、自分の内なるものを自分の外に見出だす。自分を他人に投影していることを忘れて、他人の方がそうなのだと思うのだ。このために、他人に投影していることを忘れて、他人の方がそうなのだと思うのだ。このために、他人をそう見るその見方が、まぎれもなくその人を示すことになる。カントの認識論ふうに言えば、赤いメガネをかけているから世界が赤く見えているということだが、それらの極端な人の場合、メガネが眼玉に食い込んで、眼玉が赤くなっている状態である。だから話しがしたけりゃ、眼玉をはずしてから来いということになるか。」


「もともとハウツー本とは、そういうものだと言えば、そういうものだろう。本当にそうであるのではなくて、そうである「ふりをする」、そうである「気分になる」、そういう「見せかけ」でよしとするものである。なんで本当ではなくて見せかけでよしとするかというと、本当の人生をよしとしていないからである。自分の人生を生きていないからである。自分の人生を生きていないとは、裏返し、他人の人生を生きている。他人にどう思われるかということで生きているということである。」


これは14歳の君へからの引用。
「君は、こうすることができる。嫌いなものは嫌いだ。これはどうしようもない。そして嫌いなものはそこにある。これもどうしようもない。だからそのことを自分で認めてしまうんだ。そして、それ以上そのことにこだわらないことだ。そうすれば、嫌いなものは嫌いで、ほうっておくことができる。ピーマンさん、あなたがこの世に存在することは認めるけれど、あいにく私はあなたが嫌いです。だから私はあなたを食べませんって具合にね。」