街場の教育論//内田樹 

思いと言葉の乖離p248-250

「言葉にできない」という事実をむしろ「内面」の純度の高さや無垢性のあかしであると考えてしまう。だとすれば、「思いを言葉にできない」頻度の高い人間ほど、純粋で無垢で汚れを知らない人間だということになる。現にそういう億段が私たちの中にはもう深く、手のつけられないほど深く根付いている。

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「思い」というのは、「言葉にできないことがある」という事況そのものを言い換えた語にすぎません。「思い」が言葉の前にあったわけではありません。言葉を発したあとの「その言葉では汲み尽されていない何かがまだ残っている」という感覚が導き出したものです。いっそ「幻影」であると申し上げてもよい。